適当な日常を綴る’

万年五月病患者が惰性で書き続けるブログ

祖父が亡くなった話

3月27日の昼過ぎ、父方の祖父が亡くなりました。85歳。急性心不全でした。


母方の祖父は生まれる前に他界しており、祖母は現在一人暮らし。それに対して父方の祖父母とは自分が生まれてから就職して家を出るまで、20年以上の間一緒に暮らしてきていたので
本当に身近な「身内」を亡くすのは、自分にとって生まれて初めての体験でした。そもそも葬式自体、中学の頃の曾祖母、高校の頃の友人に続いてまだ人生3回目だったんですけどね。
というわけで、いつも以上に徹頭徹尾自分のための記事になってしまいますが、熟々と書いていきたいと思います。


年度末特有の忙しさに追われつつ、でもあと2日あるし明日明後日で片付けよう、と色々後回しにしており、とりあえず会議のセッティングでもするか、と席を立とうとしていた27日の16時頃。
珍しく自分宛の外線が入り、「またクレームか…」と憂鬱になりながら受話器をとったところ母から。珍しいな、と思い「急にどうしたの?」と聞いてみると「じいちゃんが亡くなったよ」と。
急なことで驚いたのですが、とりあえずまた連絡する、とだけ言って受話器を置き、すぐに上司と先輩に報告。申し訳ないと思いつつも諸々を引き継ぎ、席が埋まりつつあった新幹線を抑えて
電車がなくなる前に急いで実家へ向かいました。色々なことを思って車内ではずっと落ち着かず、ずっとLINEでとりとめのないやりとりをして時間を潰していました。


22時頃に葬儀場に着き、霊安室で寝かされている祖父の遺体と対面しました。入れ歯を外され、口の開いた祖父の顔は少し間が抜けて見えましたし、まるで眠っているようにも見えました。
しかし、額を恐る恐る撫でてみると、確かに人間の皮膚の感触でありながら、ゾッとするほど冷たい。その異常な感覚によって、本当に死んでしまったのだな、と実感してしまいました。


祖父も数年前まではそれなりに元気で、近所を散歩するくらいは支障なく出来ていたのですが、3年前に転倒して足を骨折し、入院先の病院で病院食が口に合わず10キロ痩せてしまった頃から
外にあまり出ないようになってしまい、少しずつ元気がなくなっていました。更に一昨年に脳梗塞で倒れて入院してしまいましたがなんとか回復し、現在は週に何度かデイサービスに通いながら
経過観察をしている矢先のことでした。自分にとってみればここ数年は就職して実家を離れていたため、実家にいた頃の元気な祖父のイメージが強かっただけに、余計に驚きが大きかったです。

ここ数年は長期休暇で帰省した時に、自室のベッドで寝ている祖父に「じいちゃん、帰ってきたよ」「じいちゃん、帰るよ。また次の休みにね」と挨拶するくらいの関わりではあったものの
容態も安定してきていたし、正月休みの終わりに帰る時も、ゴールデンウィークに帰ってきた時また会えるのが当たり前のように思っていました。まさか、あれが最後になってしまうとは。


聞いてみると、ここ数日祖父の体調が優れなかったので脳梗塞の経過観察も兼ねてMRIを撮りに行き、幸い特に異常がなかったので祖母とタクシーで帰宅、家の玄関の階段を登るときに
突然倒れて心肺停止状態になってしまい、あっという間に亡くなってしまったんだとか。おそらく、本人もまさか今死ぬとは思ってなかったんじゃないかなあ。本当に突然のことでした。


翌日、通夜が始まる前に遺体を棺に移すのに男手が必要ということで、父と葬儀場の人とで手分けして安置された祖父を棺の中に運び込みました。記憶の中の祖父は割と恰幅が良かったのに
複数人で持ち上げたからというのもあるにせよ、意外なほど軽かった。よく、葬式が終わるまで泣く余裕もなかった、という話を聞きますが、自分は祖父の顔を見るだけで涙が溢れてきてしまい
通夜でも、告別式でも顔をまともに見られませんでした。今までの人生で泣くことがあまりなかっただけに、自分はこんなにも涙もろい人間だったのか、と思ってしまったくらい。
何とか涙を堪えつつ遺体を棺に収め、控え室で十年以上ぶりに合う親戚と会話し、開始時刻になったので会場へ。家族葬に不釣り合いに見えたやや豪華な祭壇と、祖父の遺影を見ました。


狸親父のように一見不敵な笑みと、はちきれそうなチョッキ。遺影の写真は、自分の大学の入学式で、祖父と一緒に撮ったときのものでした。


昨日祖母と母が慌ただしく選んだであろうその写真を見ていると、当時のことを思い出してまた目頭が熱くなり、通夜が終わるまでずっと俯いていました。焼香の順番を忘れそうになりました(
通夜の後は親戚一同で会食。普段より高いテンションで親戚に応対している父を見て、父も色々気を遣っているんだなあ、と思いながら普段の質素な食事の分まで後悔のないように食べました。


翌日の告別式。会場に向かうと、棺に手紙を入れるから書いて、と便箋を渡されました。まあ何書いても燃えるしこういうのは気持ちやろ、と「こっちもぼちぼち頑張っていきます」みたいな
ことを書いて係の人に渡したのですが、「スタンドマイクを立てますので、告別式の時に読んでもらいましょう」という流れになって焦る焦る。アドリブで乗り切ることにして頭の中で
必死に推敲しました。何せ自分は祖父にとって初孫なので孫4人の中でトップバッター。いきなり(小並感)みたいなことを言うわけにもいかないですし…。いや無茶振りでしょう。


告別式は粛々と進行していき、いよいよ手紙を読む場面に。いきなり泣いて言葉に詰まるのは気恥ずかしいし嫌だな、と思ってたのですが、冒頭「じいちゃんへ」とだけ読んだ時に感極まり
次の言葉を口に出すのに10秒くらいかかってしまいました。震え声ながらも、なんとか詰まらず、泣かずにお別れの言葉が言えたので一安心。自分の席に戻り、ようやく心を落ち着けられる…。

…と思いきや、年末に挙式をあげる妹が「花嫁姿を見せてあげたかったけど、あと少しで間に合わなくてごめんね」とか言い出したせいでめっちゃ泣いてしまいました。いやそれは反則やろ。
無宗教の葬式だったのでお坊さんもいないし、音楽も祖父が好きだった曲を流してましたが、変に形式張っていなかったのがむしろ良かったかも。最初「葬式にムード歌謡?」って思ったけど。
最後に棺に花や手紙を入れた時も、やっぱり顔を見ると涙が溢れてくるのでまともに見られなかったですね。祖母が祖父の遺体に声を掛けているのとか、見ていても声かけられなかったし…。


その後はマイクロバスで霊柩車について火葬場まで。火葬炉に送られていく棺を見ながら、これが本当に最後のお別れなんだなあ、とはっきり認識してしまいました。
今まではいつも実家に帰れば祖父がいて、それが当たり前だったのに、もうこれを境に二度と会えないんだと。言いようのない寂しさを感じました。


葬儀場に戻って昼食をとったあと、収骨もしました。数時間前まで祖父の遺体だったものは、焦げ臭い臭いと共に、白い骨のかけらになっていました。係の人が「これは腕の骨です」
「これは大腿です」とか説明してくれるのを聞きながら、箸で骨壺に収めていく。骨折したときのボルトが残っていたり、骨に血の染みが残っていたりして、妙に生々しかったです。
帰宅してからは介護職の従弟と久しぶりに長く話したけど流石にこういうことは珍しくないのか、落ち着いていたように感じました。孫の中で一番懐いてただけにショックだっただろうに…。


宿舎まで帰ってきて思うことは色々ありますが、まず、この数日はとても非日常だった、ということですね。今でもちょっとまだ整理しきれないというか。現実感があまりにもなかった。
そして、当たり前ですが、人はいつか死ぬんだということ。ここ数年祖父が弱っている事実は認識していたけれども、それでもまだしばらくは生きてるだろう、という根拠のない確信。
その確信が幻想だったと実感した今こそ、残された自分は(別に今までも十分そのつもりで暮らしていましたが)後悔のないように日々を生きていかなければいけない、と強く感じました。


…とまあ、ヤマもオチもない(当たり前か)ことを、祖父が好きだったフランク永井の曲を適当に流しながら書き連ねてきましたが、疲れたのでそろそろ終わりにしようかな。
最近何につけてもモチベーションがイマイチ上がらない日々でしたが、祖父が見てくれていると思って、明日からの新年度を頑張るぞい。じいちゃん、ゆっくり休んでね。

そばにいてくれる だけでいい
黙っていても いいんだよ
僕のほころび ぬえるのは
おなじ心の 傷をもつ
おまえのほかに だれもない
そばにいてくれる だけでいい

(『おまえに』より)


フランク永井(Frank Nagai) - おまえに