適当な日常を綴る’

明朗・潑溂・無邪気なブログ

彼女は頭が悪いから


先日、作者が東大でこの本に関するブックトークを開催した、というツイートが流れてきて興味を持ったので買いました。Kindleってホンマ便利やな…。
2016年に東大生5人が起こした強制わいせつ事件がモチーフになった小説で、事件の顛末はほぼそのまま、事件に至るまでを中学、高校時代から描いています。
女子大学生を酔わせて服を脱がせ、陰部にドライヤーの熱風を当て、カップラーメンの麺を体に落とす…そういえばこんな頭のおかしい事件あったな、と思い出しました。

この本に興味を持ったのは、ブックトークで東大生から「実際の東大、東大生と違っている」「東大を不当に貶める小説」という類の意見が出たことで、東大生はこれを読んでも
そんな感想しか持たないほどジェンダー論に関心がないのか、高学歴は恐ろしい、現実と小説の区別が付いていない、という類の批判的な意見をツイッター上でいくつか見かけたからです。


実際に読み終わってみて、事件の顛末がそのままなだけに胸糞悪い話だなあ、という単純な感想を抱くと共に、東大生が抱いた「実際の東大と違う」という不満が理解できるような気がしました。
自分自身、地方の国立を出ているので、貧しくはないまでも両親共働きの一般家庭なのに、「裕福なお坊ちゃんかな」「世界が違う」みたいにレッテル化される経験はままあるんですよね。

この小説で描かれる東大生は、語弊を恐れずに書くとステレオタイプな高学歴そのものでした。「余計なことを考えたら受験に負けるから人の気持ちを深く考えない」「挫折を知らない」等。
相手の学歴を聞いてマウントを取る、知識をひけらかす、他大の女子学生をバカにする…。東大生ってこんなふうに勉強だけは得意だけど権威的で差別的な人達だと思われているのだろうか。

主人公・つばさのように付属上がりなら尚更、東大に入る過程もしくは入った後に、周りに自分よりも頭が良い人が沢山いる、という現実を知るはずなんですよね。これを「挫折」と呼ぶのかは
ともかくとして、主人公たちのように特権意識を持った高学歴、なんてのは(中にはそういう人もいるのかもしれませんが)ほぼ架空の存在でしょう。ましてや「理Iというだけでモテる」みたいな
描写には笑ってしまう。モテなさそう…w。まあ、つばさみたいに顔が良くて運動もやってる東大生はモテるか。とにかく「東大」を記号的に描き、消費しているように見えてしまいました。
もちろん、作者の姫野先生は東大生ではないですし、これはあくまでも大衆向けの小説であって、東大生に向けた本ではないわけですから、ストーリー上そういう風に描く方が都合が良かった、
というのは理解できるのですが、モチーフとなった事件の根っこにあるのが東大・東大生である以上、そこのディテールが甘いのは惜しいな、というのはどうしても思わざるを得なかったです。


そして、この問題が根深いのは、上記のような感想を持っても、「本質はそこじゃなくて学歴至上主義への警鐘と無意識的な性差別思想だろ、枝葉末節の的外れな批判をするな」というふうに
捉えられかねないという点にあります。ことに学歴の話になると、人間誰しも(所謂高学歴でも、そうでなくても)判断力・想像力が鈍るもので、レッテルを貼られた東大生の怒りというものは
東大生でない大衆には理解されにくいし、逆に、東大生も自らを批判されたように感じて、「高学歴エリートが無自覚に持つ差別意識」に目が行きにくくなってしまう。難しい問題ですね。


姫野先生自身も仰っておられましたが、この作品の東大生たちのような「加害者性」は、エリート・非エリートを問わず、多かれ少なかれ、万人に普遍的に存在するのではないでしょうか。
自分より劣っている、と判断した相手に対する無自覚なマウンティング。学歴に限らず、社会の様々な所で無意識的に行われていますよね。そういうことをしたい、という欲求はもちろん
自分自身にもあると思いますし、なくす、ということはできないでしょう。であるならば、そういう「汚い」感情とどのように向き合っていくか、を意識的に考えていく。それこそが
大事なことなのではないでしょうか。それを無自覚な特権・差別意識を持っている一部の東大生やエリートに自覚させることが出来ればとても良いことなんでしょうけど、そこに関する描写が
甘いせいでエリート達の判断力を怒りで鈍らせてしまいかねないのが惜しいかな、と。単にオチを高学歴エリートへのルサンチマンに投げて終わり、にとどまるような題材ではないと思うので。