適当な日常を綴る’

明朗・潑溂・無邪気なブログ

日本の夜と霧 ★★★★★★★☆☆☆

安保闘争が切っ掛けで結ばれた、新聞記者・野沢と女子学生・玲子の結婚披露宴が行われていた。
しかし、逮捕状が出ている全学連の学生・太田が突然乱入し、学生・北見の謎の失踪事件を叫び始めた。
そこから、昭和25年当時からの学生運動の陰に起こった様々な事件が暴露されていく。


公開されて数日で上映中止に追い込まれたという問題作。完成を急いでNGをなるべく出さず長回しで撮ったらしく、やたらセリフを噛んだり言い間違えるのがちょっとリアル。
あらすじにあるように、結婚披露宴の会場に全学連の学生が乱入して当時の学生運動の問題点を論争するという地獄絵図で、ほぼ回想のために式場だけで完結してしまう。


時代の変化とともに、ある作品が公開当時とは違う印象を与える、というのは避けられないことでしょう。作品自体は変わらなくても、取り巻く環境が変化する。
「かつて「万物は流転する」とヘラクレイトスは言ったが、「万物は流転する」という言葉自体は流転していない」と養老孟司が指摘していた記憶があるけど、そんな感じ。


今作について言えば、学生運動を少し醒めた視点から(と自分は受け取りました)総括した作品、ということになるのでしょうか。
令和に観ると、内容はあまり演技もうまくない人たちが延々言い争っているだけ。エンタメ要素のかけらもなく、はっきり言ってしまうとつまらなかった
時代性を背景にして成立していた作品を、時代を過ぎた今観ると、炭酸の抜けたコーラみたいになってしまう。しかも別にエネルギー効率が高いわけでもない。


ただ、今作を観て何も残らなかったのか、というとそんなことはなく、学生運動の敗北の歴史の中に、社会運動の持つ普遍的な危うさ、難しさが読み取れる。
運動の盛り上がりと共に構成員の人数が増えていくと、本来の目的を純粋に追求する人はどんどん先鋭化していき、周囲の賛同が得られなくなってくる。
一方、軽い気持ちで参加しているような人は、そこから出会いが生まれて野沢たちのように結婚したり、「歌と踊り」に感化されていく。この辺りの意識の差。


ここ数日、ご当地キャラクターの性的な表現が問題になっているのを見て思うのですが、擁護側にせよ批判側にせよ、先鋭化して極論を言っている手合の意見は受け入れ難いですよね。
元ネタのある設定というのは理解できるし、その上で不適切な表現は改め、落とし所を探っていくのが妥当だと思うけど、なんというか、交渉には言い方ってもんがあるでしょうよ…。
一個人である以上、真の公正は不可能だけど、なるべくバランス感覚は養いたいな。学生運動が社会生活に絡め取られてしまう今作を観ながら、そんなことを思いました。