適当な日常を綴る’

明朗・潑溂・無邪気なブログ

夜と霧

〈わたしたちは、おそらくこれまでのどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。
人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ〉


「言語を絶する感動」と評され、人間の偉大と悲惨をあますところなく描いた本書は、日本をはじめ世界的なロングセラーとして600万を超える読者に読みつがれ、現在にいたっている。
原著の初版は1947年、日本語版の初版は1956年。その後著者は、1977年に新たに手を加えた改訂版を出版した。
世代を超えて読みつがれたいとの願いから生まれたこの新版は、原著1977年版にもとづき、新しく翻訳したものである。
私とは、私たちの住む社会とは、歴史とは、そして人間とは何か。20世紀を代表する作品を、ここに新たにお贈りする。


先日『日本の夜と霧』を観たのですが、そういえば本家本元の『夜と霧』、名前しか知らないな、と思ったので読むことに。
個人的には「フランクル」といえば算数オリンピックおじさんの方が先に思い浮かぶのですが、あの人もハンガリーユダヤ人だったんですね。


想像を絶する強制収容所での体験記については、令和に読むとあまりにも現実離れしすぎていて、どう受け止めたものか困ってしまうところが多い。
著者がここまでの過酷な環境で生き残ることができた理由を自分なりに読み取っていくことで、日々の生活へ何らかの還元ができるのかな。


その観点で読んでいくと、まず、著者が精神科医だったからでしょうね。単純に、カポーのメンタルケアをしたり、病棟で治療にあたったりする役目があったから優遇され、生き延びられた。
たけしの挑戦状』に「芸のないやつは生きていく価値がない」という有名なセリフがあるけど、その逆で、芸があるから生き延びられた。いつの時代もスキルはあるに越したことはない。


更に、収容所のような異常な状況下においても「自分は精神科医として、人間観察をしているのだ」とメタ視点に立つことで、心の平静を保つことができた、という点。
自分も忙しくなるとすぐにキャパがいっぱいになって周りが見えなくなってしまうのですが、一歩引いて、広い視野と心を持つだけでも違うのかも。難しいですけどね…。


そして「自分を待っている仕事や愛する人間に対する責任を自覚した人間は、生きることから降りられない」という箇所。これが普遍的な生きる意味になるのかも。
つまり、仕事でも家族でも、責任を持つと生きることを軽々しく放棄できなくなる。換言すれば、生きる目的を見つけないと先は暗い、ということ。凡夫にはなかなか厳しいけど。
更に、それは実態のない希望ではいけない。クリスマスや正月になると、解放されない絶望から死者が増えた、という逸話は、まやかしの希望の副作用の強さを物語っていて印象的。


単純な読みものとしても興味深かったし、どうであれ「希望」を持つことが生きるヒントになる、というのは概ね自分の幸福感と整合したような。
ショーペンハウアーではないけど、結局幸福は自分の内にしか見出せないものだと思ってるので、あとは内面のコントロールをもう少しうまくできれば…。