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エンドレスエイトの驚愕

エンドレスエイトの驚愕: ハルヒ@人間原理を考える

エンドレスエイトの驚愕: ハルヒ@人間原理を考える

  • 作者:三浦 俊彦
  • 発売日: 2018/01/23
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

日曜の大会、帰りの電車がヒマだし何かジュンク堂で買って帰るか、と思ったときに、ふと中高の同級生がブログで勧めていたこの本のことを思い出しました。もともと自分は「ハルヒ世代」ど真ん中のオタクだ、というのと
舞台となったのが自分の実家、母校(厳密には違いますが)であるのとで、作品自体の好みはともかく、『ハルヒ』シリーズにはかなり思い入れがあるんですよね。それこそ高校3年間は毎日通学が「聖地巡礼」だったので…
ハードカバーで400ページ。著者は東京大学文学部で分析哲学を専攻している教授。正直何故今更…という気持ちはあったのですが、「エンドレスエイト」は自分の中で不良債権し、モヤモヤしていたので理解のために買いました
知らない人がこの記事を読むことはないと思うのですが一応書いておくと、「エンドレスエイト」とはアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』2009年放送版の第2期で、8週間にわたって8回、ほぼ同じエピソードを次回予告もなしに
放送し続けた、という、ぶっちゃけて言うと頭のおかしい試みのことです。それこそ『ポプテピピック』以上の暴挙をほぼ10年前にやっていた、ということなんですけどね、初見さん(大物Youtuber風に)

共感といえば、エンドレスエイトは確かキョンの苛立ちや退屈を体験、共感してもらおうという意味を込めてああいう演出にしたんじゃないかという意見がありましたよね
自分はあの演出手法を認めた上で、それでもハルヒクラスの知名度の作品で‘地上波’であのような実験的手法を取ることでファンが少なからず減ることは好ましくないと思ってました
当時ハルヒ2期が制作決定だと聞いたときに、「これで消失がアニメで見られる!」という期待が少なからずあっただけに、同じ話をループさせるという手法は正直期待外れだったわけです
早い話が、「エンドレスエイトなんて2回くらいで終わらせて余った話数で消失を放送してくれよ」と思ってたわけですね


これは2010年の3月1日、つまり8年半前、自分が『消失』を映画館で見た時にこのブログに書いた感想です。この本の内容とかなり親和性が高いと思うのでちょっと引用しておきますね。自分の記事だけど(


前半で「エンドレスエイト」の何が駄目だったのか、を複数の点から見て検証していきます。ここが割と面白くて、この記事を読んでてかつアニメ・原作に触れた人は知ってほしいのでかいつまむと


・ループをしているのであればバタフライ効果が起こるはずなのに、8週の放送内容が大筋でほぼ同一なのはおかしい。様々な展開を見せるはずで、同一であることによる不自然さが生じている。
・ループものは、各ループ毎に制御できない、その時々特有の差異が生まれるところに一つの妙味があるのに、アニメという最初から画を決定された不確定性のない媒体で、同一なループを描くこと自体が不適。
・『消失』の布石としてイライラを共有してほしい、という意図があったとして、8週もの間同一の話数を視聴者に見せるだけの意義がない。得られるカタルシスに釣り合っていない。
・そもそも、登場人物と感覚を共有しなければ真に作品を鑑賞できない、などということはない。戦争映画を真に味わうには戦争体験が不可欠、などということがないのと同じ。
・「超監督ハルヒの意思として放送された作品だというメタ解釈が成り立つ、という説に立ったとしても、こんな退屈な8週放送を本来”常識人”であるハルヒが許可するとは考えにくい。


…とまあ、完膚なきまでに制作陣をボコボコにしてて面白い上に、上で引用したような自分のエンドレスエイトに対するモヤモヤを大部分払拭してくれました。『消失』のためならまあ…という一種の妥協に対する模範解答。
あともう一つ、「エンドレスエイト」は『消失』を構成する大事なパートだから8回も放送したのだ、という主張については著者は殊更懐疑的で、エンドレスエイトの負荷が長門に誤作動を起こさせて『消失』の世界改変を
起こした、というより、SOS団との触れ合いの中で人間的な自己に覚醒し、世界改変を行ったと見る方が自然である。なぜなら改変後の世界で、キョンに元の世界に戻るか否かの選択が出来るようヒントを残していたことから
壊れていたわけではなかったからだ、という主張をしていて、これも割と理解できると思いました。この観点に立てば、エンドレスエイト長門の自我獲得の一因でしかないためそこまで重要でもなく、まして8週も連続して
放送するほどのエピソードではない、というわけです。そしてこの文脈で見ると、自我を獲得した長門を容赦なく対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース*1に戻す残酷なキョン、という哀しい物語が浮かび上がる、と。


後半は「エンドレスエイトは失敗作に見えるが、分析哲学的手法で何とか再解釈・再定義できないか?」という話題にシフトしていき、ここからは一種の思考実験の様相を呈していくのですが、また別の意味で面白かったです
マルセル・デュシャンの『泉』のような概念的な芸術だとすれば意義を見出せるのでは?という主張は飛び道具すぎるな…と思ったものの、読み終わったら確かに現代の『泉』では?と少し思ってしまうようになるんですよね
作品の多面的解釈を提示しながら、最終的に「エンドレスエイトという作品が存在することが、地球外文明が存在することの証明になる」という結論にまで至るというトンデモ展開で、ここは興味ある人は読んでほしい、としか(


前半に付随して自分が面白いと思ったのが、視聴者にとって何故こんなに不評だったのか、という話で、エンドレスエイトに含意された制作側の意図をオタクは酌んでくれるだろう、という制作側の考えに反して、オタクが
求めていたのはエンターテインメントとしての『ハルヒ』であり、含意や技巧なんてものは二の次、三の次であった。ゼロ年代後半、所謂「リア充」に対するオタクの反感が強まっているように見えた中で、結局アニメを
通して大多数のオタクが求めていたのは、『ハルヒ』のような充実した生活の追体験でしかなく、高尚な寓意を咀嚼することではなかったのだ、という残酷な現実を自意識が肥大したオタクに直視させてしまったからでは、
という結構過激な主張でした。これは今のオタク観とも通底するものがあると思います。自分自身、「ゆとり世代」のオタクとして、アニメに求めるものは第一にエンターテインメント性だと思っていますし、含意なんてものは
少なくとも普通の視聴者が見たら、変な理屈をつけなくても当然に実感できる程度のものであってほしいとも思っています。岡田斗司夫氏が「分かる人には分かる」は作品として二流」と言ったというのを著者が引用していますが
アニメについては自分も全くの同意見なんですよね。まず普通に見て面白くてナンボ。…この話はキリがない上に横道に逸れるので割愛しますが、自意識と素朴な感性の調和は、オタクとしては常に意識すべきだ、と思っています


ダラダラ書いてたら長くなってしまいましたが、特に同世代で、ハルヒを多少なりとも楽しんで見て、エンドレスエイトになんとも言えない消化不良感を感じた人には是非読んでほしいですね。2700円の価値はあると思います。
割とすごい論理展開をしてるのでツッコミたくなるところも結構あるんですけど、少なくとも作品のアニメとしての批評についてはとても説得力のある、『ハルヒ』愛に溢れた本でした。

*1:この言葉めっちゃ久しぶりに使ったかも