良妻賢母型女子育成を教育の理想とする京都の全寮制の名門女子大学。そこでは徹底した束縛によって学生の生活に対する干渉が行われていた。
恋人との自由な文通さえも許されず、また男友だちとの交際も禁じられ、これに反すると停学処分に。
その一方では学校の有力な後援者の子女は特別扱い。その理不尽さに女子学生たちはついに自由を求めて立ち上がる。
今日も木下監督作品。チェーホフの小説が原作かな?と思ったら、あれは『桜の園』だった。適当でした。
これ、当時のキネマ旬報の年度別ベストテンで2位だったらしい。1位が同監督の『二十四の瞳』で、3位が有名な『七人の侍』。
七人の侍より高評価だったってどういう作品なんだ…と思って興味が湧いたのですが、バリバリの社会派映画でした。評論家が好きそう。七人の侍はある種娯楽映画の極致だしなあ。
じゃあイマイチだったのかというとそんなことはなく、様々な考えを持つ女学生たちと、それを押さえつけようとする学校側の思惑が交差していくのが面白かったですね。
左翼的な活動をしてたら級友に「お前の家は裕福なのに気まぐれで活動するな」とか言われるのは理不尽でしたが、学生運動って(当人にとっては)暇潰しではなかったんだろうなあ。
大卒の肩書きだけほしい大部分の女学生と、自由と権利を求める活動的な女学生と、主人公のように勉強がしたい学生と。自由を求めて立ち上がる、と言っても、決して一枚岩ではない。
それを見越して、わざと生徒ごとの処分に差をつけて内部分裂を図る学校側のやり口も狡猾でしたね。人心掌握術に長けすぎてて怖いわ。東山千栄子は穏やかな老女のイメージ強かったから尚更。
あと、教師が「唯物論の勉強なんかするな」と言うのは何でやねん、ってなって調べたけど、唯物論=マルクス主義みたいな時代だったんですね。自由に勉強できない大学とは…。
勉強にもついていけず、かと言って規則に縛られて何も出来ず、学生運動との板挟みになって苦しむ主人公が精神的に追い詰められてしまう。
ヒステリーを起こして畳の上を転がって泣くシーンは最早ギャグか?と思ってしまった( その行動はおかしくない?と終始感じたけど、生きるのが下手な人、ということなんだろうなあ。
自分は、他人に迷惑をかけてるし特に社会に貢献してるわけでもないけど、別にそれでも良くね?と開き直れるタイプの人間ですが、メンタルヘルスの観点からは重要な考え方だとも思いますし。
そこを掘っていくと、根本は自己肯定感なのかもしれない。これが低い人は自分の周りでも概して生き辛そうにしている印象だし、その点ではまだ自分は恵まれているな、と。
大幅に話が逸れたけど、群像劇がラストのショッキングな事件で1つに収束していく構成も面白いし、特に久我美子と高峰三枝子の舌戦も印象的。
恋愛要素がやや冗長だったし、社会派ゆえの堅苦しさはあるけど、2時間以上を飽きさせない佳作でした。メロドラマと社会派作品と喜劇。木下作品の傾向が少し見えてきた気がする。